K2さんの雑記
2006-08-11(Fri) [長年日記]■ ニンテンドーDSで速読トレーニング「目で右脳を鍛える 速読術」。 Narinari.com速読かー。 速読の能力って、必要だろうか。そりゃ、ある程度の速読は当然必要だと思う。Web上にころがっているノイズの中にあるお粗末な情報を拾い上げていくためには、速読が必要だ。 しかし、「速読」という言葉を使って言うところの速読とは、たとえば本の見開きをぱっと見て、イメージを脳裏に焼き付け、そこから情報をパターン認識で読み取るたぐいのものだと思う(よくは知らないのだが)。 本を読むというのは、いろんな考え方があるだろうが、知識を得るために読むというのは、昨今あまり必要がなくなってきているように思う。そんなものはインターネットで十分だからだ。 本を読んでいる時に、あれこれ思考する。これが重要なんじゃないかと思う。だから、私は、本を読んだ後、何かが残る必要はないんじゃないかという立場に立つ。悪本を読んでいても、それを批判的に読む限りは、読んでいる時間は無駄ではないと私は考える。 だから、本を速読する意義というのは、私にとってはあまりない。 さて、この速読のトレーニングゲームだが、「目で右脳を鍛える 速読術」という名前からして、右脳トレーニングなんだろう。だから、速読ができるようになるわけではないんじゃないんだろうかと勝手に想像する。速読を行うことによって、脳トレのような楽しさがあるというのであれば、おもしろいゲームになると思う。 ■ ビットパターンを反転させる仕事結城さんの日記。
メディアのビットパターンを反転させるって、どういう意味だろう…… 今思いついたのだが、紙に字を書くとか、エディタで文字を打つとか、そういうことなのかな。たとえば、VGAのピクセルの輝度を反転させるとか、ファイルのストリームの各ビットを0から1や1から0に変えることで情報を書き込んで行くとか?
そう考えると、確かに。 このエントリは、本当に「どういう意味だろう……」で終わるつもりだったのですが(本当に意味がわからなかったのだ)、書いているうちにちょっとピンと来ました。なんか、詩的な表現ですね。 ■ 読書について今、ちょっと話題になってるよね。読書法。読んだ後、書けとか。 そんなにいろいろ見て回った訳じゃないが、この文章には同意する。
「nonomachonの日記 - 本を読むことは他人の脳の間借りなんかじゃない!絶対にない!」より。 文章全体に同意できるわけではないのだが、この人の言うように、あんまり深く考えなくてもいいんじゃないのかな。読書後の人によって記憶の度合いとか違うし、私なんかは読書した後、本の内容ほとんど覚えてなくて、愕然とする場合はあるけど、何も残らないわけじゃない。脳の中に思考の回路が残る。それで日々、無意識を鍛えるのに意味があるんじゃないかと考えている。 普段、私の場合、何かを考える時、論理的に考えるのは大事だが、結論は直感が出している場合が多い。これは私のイメージでは、答えは無意識が出しているという感じだ。何か課題があると、私はその課題を無意識の領域に外注する(ちょっと意味不明な文章だが勘弁して。本当にそんな感じなんだよな)。外注した仕事の結果が出るのに、時間がかかる。長い時間を必要とする時もあるし、短い時間で返ってくる場合もある。 だから、少し時間を置く、つまり寝かす必要がある。 仕事している時、外から見ていると、私の集中度ってむちゃくちゃ低いように見えるだろうなー。コーディングしていても、常にメールはチェックし、ブラウザは使いまくり、ほとんど遊んでいるみたいに見えるだろう。だから他人に見られるとちょっと怖い。 でも、実はコーディングはちょっとずつちゃんと進んでいるようなのだ。外注した仕事が戻ってくるのを待っているみたいなんだ、どうも。 昔書いたことがあるけど、本当に大きな問題の場合は、睡眠中も無意識は動いている。夢の中で考えるという表現もよくあるけど、本当にそんな感じ。朝起きると、問題の解決法がわかっている場合もよくある。コーディングの場合なら、ソースのどこに修正を入れるのかが朝起きた時にもう脳みその中にある。これは外注していた仕事が返ってきたんだなーと私は思っている。 こういう能力を育てるのに、読書というのはとても効果があると私は考えている。読書をする時に、無意識領域の問題解決能力をせっせと強化しているんだと思う。 だから、知識をしいれなければいけないという読書以外の読書は、何も考えないで(というのは語弊があるが)、自然に読めばいいんじゃないか。自分の脳みそを信じて。 と、私は最近考えるようになった。本当にここ5年くらいのことだが。 ■ 音楽があまり重要ではなくなってしまった40まで生きてきた結論。 歳を取っても、感受性は鈍くはなりません。 それどころか、若い頃には気づかなかったことを感じることができるようになります。それを感受性が鈍ったと取ることはできないことはないですよ。それが理由で単純に感動することができなくなるということはあるでしょう。でも、それと音楽を聴かなくなったことは、直接は結びつかないのではないでしょうか。 音楽を聴かなくなるのは、時間がなくなったとか、それよりももっと大事なことや楽しめることが増えたとかそういうことではないですか。 歳を取ると、確実に価値観は多様になります。 音楽の趣味が変わっていくということは当然考えられます。それに合わせて、ある程度ソースを変えていく努力をしないと、音楽がつまんなくなったという錯覚をする可能性はありますね。 歳を取ることは、感受性にとって、悲観することは何もないです。 1965|09|
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