[本]方法序説

感想

本日はお休みだったので、デカルトの方法序説をkindleで購入。

方法序説 (岩波文庫) | デカルト, 谷川 多佳子 | 哲学・思想 | Kindleストア | Amazon
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どうやら2008年にも購入しているらしいが、記憶にないし、書評・感想がどこにも残っていない。そのため初めて読んだ気分で感想を。なお、1年前に同じくデカルトの情念論は読んでいる。当時のtwitterでのツイートを引いておく。

”情念は、身体や感覚器などへの刺激が原因となって精神に働きかける動きで、精神の中でも下位の感覚的な部分に働きかける。精神には自由意志に代表される理性が支配する上位な部位も存在するが、それは情念からの影響に対位して描かれている。”

”つまり身体と精神は完全には分離できず、それは情念によって結び付けられている。この前提を持って、種々の情念の分離と分析、対処法が解かれていく。情念が発生する身体機能の機構についても解かれているが、これは現代の科学的知識を持っていると、いささか想像の域を出ていない妄想的に感じる”

”しかし、情念の分類と分析、対処法からは、それなりに得るところもあり面白い。なお、私の今の興味は、人工知能が人間の知能に近づくことができるのかというところにあるが、人工知能に身体や情念といった理性と対極に位置するものがなければ、実現できないのかなという感覚を持っている”

情念論で展開されているように、デカルトは身体と精神の二元論で物事を考えるが、これらは完全に分離していたわけではなく、情念によって繋げられているという考え方をしていた。

その上で、方法序説に触れてみよう。デカルトは当時、方法序説によって提唱されている考え方を10年以上実践し、道徳、形而上学、天体、解剖学、医学などの分野の研究を進めており、自然学全体を秩序立てて論じる「世界論」を執筆していた。しかし、ちょうどガリレオの断罪事件が起こり、「世界論」の出版を諦め、その代わりに「方法序説」を序文とした3つの科学論文を出版した。正式には「理性を正しく導き、学問において心理を探求するための方法の話[序説]。加えて、その方法の試みである屈折光学、気象学、幾何学」という。「方法序説」はこの三つの科学論文集の短い序文となっている。

本書は6部構成で、以下のように要約される。

  1. 学校で学んだ人文学やスコラ哲学の不確実性と不要への気付き
  2. これらを捨て、新たな思想を構築するための4つの「方法」
  3. 思想が構築されるまでの間の実践的な3つの生活指針
  4. 「方法」実践の結果としての「わたしの精神」「神」
  5. 「世界論」のエッセンス。宇宙・自然・人体論・動物と人間の差異
  6. 「世界論」公刊中止の経緯

第5部は当時の知識下での科学論であり、情念論と同様、「現代の科学的知識を持っていると、いささか想像の域を出ていない妄想的に感じる」部分もある。また第6部はガリレオの断罪に対するショックや、「世界論」を公刊することで、これに関する人との議論や弁明に時間を割かれることに関する拒否が表明されている。直接明言されていないように見えるが、当然同様な断罪への恐怖もあっただろう。

そういうことで、本書の中心は方法論である第2部とその結果による「考えるゆえに我あり」の第4部になる。

デカルトは、学問の方法として、論理学から以下の4つの規則を抽出した。

  1. 明証的に真であると認めるものでなければ、どんなことも真として受け入れない(明証性の規則)
  2. 検討する問題を小部分に分割する(分析の規則)
  3. 単純な問題から複雑な問題へ階段をのぼるように順序を想定して進む(総合の規則)
  4. すべての場合に、完全な枚挙と全体にわたる見直しをし、見落としがないようにする(枚挙の規則)

この方法によって、教育によって刻まれた人文学などの学問を放棄し、一から自分の拠り所となる哲学の原理を構築することを考えた。

これにより、第4部で形而上学的な最初の省察としての中心原理が述べられる。まず、少しでも疑わしいものは誤りとして破棄し、その後に何が残るかを考えた。その結果、すべてを偽と考えている「わたし」は必然的に何者かでなければならない。「わたしは考える、ゆえにわたしは存在する」という真理に到達する。

ここで、わたしを存在するものにしている魂は、身体[物体]からまったく区別され、しかも身体[物体]より認識しやすく、たとえ身体[物体]がなかったとしても、完全に今あるままのものであることに変わりはないと述べられる。二元論の考え方だが、脳科学が進んだ現代の我々からするとなぜこのように分離して考えることができるのかは、逆にちょっと受け入れがたいところがある。全く解明することはできていないが、我々の精神は明らかに脳の構造によって構成されていることをほぼ間違いなく我々は認識している。そのため、精神だけを分離して存在可能と割り切って認識することが難しくなっている。

第4部ではその後、疑わずに認識をしてしまうわたしの存在を考えた場合、認識することは疑うことよりも完全性が大であり、このような自分よりも完全である何かを考えることをわたしはどこから学んだのかを探求することにより、自分の持つ完全性を持たせた完全な存在が必ずなければならず、神に行き着く。

この辺の論理展開は循環論法になっているという批判もあるほど、なかなか理解しづらくなる。またキリスト教を信仰しない日本人などからはキリスト教の神の存在と共に歩んでいる人々の考え方はなかなか理解しにくいところがあるとも思うので、一旦おいておこうと思う。

それをおいても、この4つの「方法」は、現代でも応用可能なものであり、公理から定理を積み上げていく数学的な論理構築を、通常の思考でも実践していくというやり方である。

なお、デカルトは、考え方の拠り所となる原理の構築が完了するまでの道徳として、(1)法律と慣習に従う (2)一度確固とした決めた意見はどんなに疑わしくとも一貫して従う (3)運命より自分に打ち勝つように、世界の秩序よりも自分の欲望を変えるように務める という3つの道徳を定めて従った(第3部)。1については極端からはもっとも遠い、一番穏健な意見に従って自分を導くということで、極端な意見を持たないということ。3については現状の自分を受け入れ、それを超えて求めないということ。これらの生き方は、明確な判断基準を持たない(持てない)時には役に立つ物の考え方かもしれない。

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